こんにちは!ウチの部屋へようこそ!
今回は松坂大輔選手の引退についてお話していきたいと思います。
松坂大輔と言えば、いわゆる「松坂世代」という言葉に代表されるようにいち時代を築いた選手、スーパースターの一人であることは間違いないでしょう。
昨今の分業制が敷かれるプロ野球界で、ほぼ最後の「先発完投型」の投手ではないでしょうか。
引退は本当に残念ですが、選手生命を全うしたとも言えると思います。
今回は、松坂大輔のこれまでの成績と引退の原因について考察していきたいと思います。
それでは、行ってみましょう!
松坂大輔の引退までに残した成績について
平成の怪物と呼ばれた1998年の夏の高校野球準々決勝、PL学園対横浜高校の試合は延長17回の熱戦となり、この試合で250球を投げ切り完投したのはエースの松坂大輔。
更に、決勝の京都成章戦では何とノーヒットノーランを達成します。
そして、この年のドラフトでは1位指名で西武ライオンズに入団。
翌年の1999年高卒ルーキーとして初先発初勝利を挙げます。
この年は16勝で最多勝と新人賞をダブル受賞の大活躍。
ここから、松坂大輔の快進撃が始まるのです。
松坂大輔の成績から見る特徴とは?
西武ライオンズ時代にはには1999年から2006年までの8年間在籍し、通算108勝、先発回数190回に対し完投は72回。
ちなみに他の代表的な先発完投型投手として、元ロッテの村田兆治さんは現役通算22年間で先発433回に対し完投184回。
どちらも、約4回に1回の割合で完投しています。
また他の特徴として、
- 肩が強い
- 速球主体
- 球数が多い
- 与四死球が多い
このように投球数、与四死球が多く、これが長期的に見て選手生命を縮める遠因となったとのではないかと考えられます。
メジャーリーグ移籍から日本復帰と引退までの経緯
西武から2007年にメジャーリーグのボストンレッドソックスに移籍し、15勝を上げ、ワールドシリーズで優勝も経験。
更にはワールドベースボールクラシックでは2006年、2009年に2度のMVPを獲得など華々しい活躍を続けます。
しかし、2011年にひじの故障によるトミー・ジョン手術後は球威が落ち以前のような投球スタイルではなくなってしまいます。
それでも、2015年までメジャーリーグを渡り歩き、2016年にはソフトバンクホークスで日本球界復帰。
ソフトバンクでは3年契約したものの、1軍の試合での登板は1度だけ。
その後中日ドラゴンズに移籍、2年間の在籍で通算6勝5敗。
この移籍の際に、当時の中日ドラゴンズの森繁和監督は実際に松坂の投げる姿を見て「いけると思ったから取った」そうです。
2020年に西武ライオンズに復帰を果たすものの1軍での登板は1度も無し。
この時に首のしびれと右手の指の感覚がなくなっていることを訴えており、これを解消するために2020年7月5日に首の手術を行いますが、改善されることは無かったようです。
そして、40歳を迎えた今季7月6日に引退を発表しました。
大活躍の陰で抱えていた問題とは?
日本球界復帰後は以前の松坂らしさはすっかり鳴りを潜めてしまいました。
結果的に中日での6つの勝ち星がキャリア最後の勝利となってしまいました。
通算は170勝。登板数は218回。
松坂世代の第一人者としては少し物足りない数字です。
もっと出来たのではないか?というほどの活躍だったからです。
それほどに印象深い選手でしたが、肩、肘の故障に悩まされた結果でしょう。
プロ野球デビュー当時から剛速球を主とした三振を取りに行く投球スタイルでしたが、2011年の手術後は徐々に球威は鳴りを潜め、変化球主体の打たせて取るピッチングに変化。
また、摂生という意味ではそこまでストイックなアスリートではありませんでした。
兎に角、甘いものが大好きで日本でのオフシーズンにはスイーツを食べまくり、2月のキャンプ入りや開幕当初には頬がパンパンになるほど太っており「アンパンマン」と呼ばれるほどだったそうです。
これは日本球界復帰後も変わらず、肩やひじなどのリハビリを繰り返しつつも摂生に関してはうまくいきませんでした。
2020年の西武在籍時にはチームには帯同せずに、ジムで軽いトレーニングとリハビリを繰り返し、渡辺久信GMが期待していたような働きはできなかったようです。
では、なぜこうなったのか?
松坂大輔の引退の原因についての考察はこちら!
高校時代から、一度先発すると自分から変えてくれというタイプではなく、監督、コーチが交代を促しても「まだ大丈夫です」「まだ投げられます」と答えていたそうです。
そんな松坂選手ですが年間成績で明らかに落ちた年が2回ありました。
2002年と2009年です。
この2回だけ、溝のように極端に成績が落ちています。
つまり、故障のために登板出来なかったということです。
ここからはその2回について見ていきます。
肉体の酷使による故障と手術による回復について
詳しく見ると2002年、2009年のそれぞれでその2年ほど前からシーズン登板回数=先発回数が増加し、30回前後まで増えています。
それに従い投球回数も急増しています。
その後に肩や肘を傷めて故障者リスト入りをし長期離脱をしています。
野球の投手の故障の原因として幼少期からの投球の過多による肩や肘の消耗、つまり球数が多すぎることがその一つだと言われています。
松坂選手が高校から多投により肩、肘を酷使していたのは明らかです。
それでも地肩の強さ、天性の肉体の強靭さで投げぬいてしまっていました。
しかし、その代償として肘の手術をするに至りました。
この手術はトミー・ジョン手術と呼ばれ、手首などの腱を肘に移植するものです。
手術から約1~2年で復帰出来るとされています。
この手術を受けた方は、マサカリ投法で有名な村田兆治さん、松坂選手自らの名前を頂いた荒木大輔さんなどがいらっしゃいます。
最近ではダルビッシュ有選手、大谷翔平選手もこの手術を受け、怪我から復帰しています。
ほかの選手はリハビリから時間をかけて以前とほぼ同様の活躍を見せているにもかかわらず、松坂選手が復活できなかったのは何故なのでしょうか。
オフシーズンの過ごし方と摂生
この手術を受けたことはきっかけにすぎず、高校時代からの肉体の酷使によって蓄積していた疲労が故障となってメジャーのキャリア後半で徐々に表面化してきたのではないでしょうか。
また、オフシーズンにしっかり休養し肩を休めたり、不足な部分を鍛えたりといった機会が少なかったのかもしれません。
投手の肩は消耗品だと言われます。
我が子を抱くにも利き腕は使わない、寝る時は利き腕を下にして寝ないなどをして自分の体を大事に扱うそうです。
憶測に過ぎませんが、プロとしての能力は申し分ないはずの松坂選手が復活出来なかった最大の原因は、周りの環境とオフシーズンの過ごし方にあったのではないかと考えます。
きちんとサポートしてくれる人はいなかったのでしょうか。
また、甘いものを我慢し摂生に努める、バランスの良い食事、良質な睡眠をとるなど日常から気を付けていくことが足りなかったのでしょうか。
これは野球選手に限らず、一般人の我々も見習い教訓と出来ることがあるのではないかと思います。
なお、松坂選手は2012年にレッドソックスを退団します。
その後、2球団を渡り歩いたのち2016年に日本へと帰って来ることになるのです。
体の酷使と手術による影響について
これまで華々しい活躍を遂げ素晴らしいキャリアを積み重ねてきた松坂投手はきっと「絶対復活して見せる」と思ったに違いありません。
しかし、体の状態は以前とは真逆の投球スタイルに変えざるを得ないほどでした。
2011年の手術から復帰後、徐々に球速は落ち始め、最終的には以前のような目の覚めるような剛速球を披露することは出来ませんでした。
それほどに天性の素質に恵まれていたために、或いは手術後の体に違和感をずっと感じ続けていたのかもしれません。
メジャーリーグに移籍後から、肩、肘に違和感を訴え故障者リスト入りすることも増えました。
野球をする上で日本との環境の違いになじめなかったこともあるのかもしれません。
西武在籍時、最終的には首のしびれ、右手のしびれを訴え、右手の中指は感覚がない状態だそうです。
まとめ:松坂大輔が引退!生涯成績から原因について考察!
松坂世代と呼ばれた華々しいプロデビューから、早いもので23年が経ちました。
松坂大輔も40歳を迎え、3児の父親となりました。
数々の素晴らしい成績を残し、天性の才能と脆さを併せ持ったいち世代を築いたエースがとうとう引退します。
中日でのカムバック賞受賞以来目立った活躍は出来ませんでしたが、日本復帰後には若いころから酷使し続けた体は限界を超えていたのでしょう。
それでももう一度復活を目指し挑む姿は、松坂世代と呼ばれた選手の矜持だったのではないかと思います。
今回は松坂大輔 引退!生涯成績から原因について考察!と題してお話させていただきました。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。