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尾崎豊の死因の真実は?様々な謎から考察!

尾崎豊の死因の真実は?様々な謎から考察!

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こんにちは、ウチの部屋へようこそ。

今回は1992年にこの世を去った夭折のアーティスト、尾崎豊についてお話したいと思います。

既に死後30年近くが経ち、尾崎豊が生きていれば56歳。当時中学生だったファンも、今では40代を迎えていることになります。

その死因については様々な憶測と共にいろいろな説が飛び出しました。

自殺説、他殺説、陰謀による計画的犯行…裁判も起きました。

今回は死因や様々な謎めいた説を一つずつ見ていき、少しでも真実に近づければと思います。

それでは「尾崎豊の死因の真実は?様々な謎から考察!」です。

行ってみましょう。


尾崎豊の死因は肺水腫

尾崎豊は1992年4月25日、午後0時6分に死亡が確認されました。

死亡が確認されたのは文京区千駄木の日本医科大学付属病院の高度救命救急センターでした。

死体検案書には死因は肺水腫とあります。

肺水腫とは突発性が高い症状です。

具体的には肺の内部に水がたまり、呼吸が出来なくなる呼吸不全を起こす症状です。

尾崎豊のこの場合について、考えられる原因は大きく分けて2つあります。

  1. 極度の飲酒によるもの
  2. 覚醒剤によるもの

1992年当時の検視、解剖によると死亡時の検査で血中のアルコール濃度が異常に高かった為、過度の飲酒が原因で突発性の肺水腫を引き起こした、という見方でした。

しかし、2年後の1994年に司法解剖の結果が記された「死体検案書」のコピーが外部に流出。

そこには体内から大量の覚醒剤が検出されたことが記されていました。

これが大きな波紋を呼ぶことになります。

 

尾崎豊の亡くなった日時と場所

死亡の前日の1992年4月24日、尾崎豊は夫人の繁美さんと共に、六本木でデビュー前に在籍していた青山学院高等部時代の友人らが開いたパーティーに出席し、パーティ終了後二人は別々に行動しました。

繁美さんはそのまま帰宅し、尾崎豊は仲間と飲みに行ったそうです。

一夜明け、早朝から尾崎豊は変わり果てた姿で発見されます。

4月25日、5時45分頃のことでした。

自宅マンションからわずか500メートルの足立区千住河原町の民家の庭先で全裸で発見されます。

民家の住人で目撃者の小峰さんの証言によると、地面に顔面を打ち付けたり、裸で地面に這いずり回っていたり、何か武道の型のような動きをしていたそうです。

また、ブロック塀にも自分の頭を何度も打ち付けていたりもしたそうです。

普通の状態でないのは明らかです。

この民家の小峰さんの119番通報により墨田区の白髭橋病院(当時。現在は東京曳舟病院)に緊急搬送された尾崎豊は医師の診察を受けますが、この際にあまりにも暴れるために鎮静剤を注射されます。

この時には既に尾崎豊の右目上には卵大状の紫色のコブがあり、裸で庭先を這いずり回った為に全身に擦過傷(擦り傷)もありました。

見るからに異様な姿です。

病院に引き取りに来たのは妻の繁美さんと義父です。

搬送されてから約1時間半、この時点で担当医から専門医の診察を勧められたものの、本人に意識があり何度も「帰りたい」と繰り返したため、一度足立区の自宅マンションへと帰ることになります。

そして午前7時30分頃、自宅マンションの前で兄の康さん、当時のマネージャーである大楽さんと待ち合わせ、部屋へ到着します。

この時に尾崎豊は兄の康さんに対し「ああ、アニキ、わるい、わるい」と話したそうです。

明らかに兄と認識し言葉をかけていることから、泥酔状態にもかかわらず意識ははっきりあったと考えられます。

この時自宅のマンションには息子の裕哉くん(当時2歳)もいたそうです。

自宅では主に康さんと大楽さんが尾崎豊を介抱し、繁美さんは裕哉君の面倒を見ていたそうです。

自宅に帰って来てから約2時間後の午前10時頃に容態が急変します。

尾崎豊の呼吸が停止したことに気付き、119番通報があったのが午前11時9分。

この約1時間に何があったのでしょうか。

そして上述の通り、日本医大付属病院で午後0時6分に死亡が確認されています。

 

尾崎豊の亡くなる直前の様子は?

亡くなる直前の尾崎豊は、本来の歌手としての歌唱、作詞作曲業とレコーディング作業、コンサート出演、それに加えて個人事務所の社長としてコンサートのプロデューサーとして会場関係者との交渉、プロモーション活動など本来であれば複数人で分担すべき作業をすべて一人で行っていました。

この時期はほとんど食事や睡眠もとらないうえ、飲酒だけはウィスキー1本を2~3時間であっという間に空にする程で、周りから見てもわかるくらいにやせ細っていて、身長が178センチに対して体重は55キロだったといわれています。

一説にはるいそう、と呼ばれる状態だったといいます。

また、自宅マンションの机の引き出しには薬局なみに薬がしまい込まれており、そのほとんどが内臓に関するものだったそうです。

腹痛を感じると食事もろくに取らないうえに薬を飲み、毎晩ウィスキーを空にするような私生活、いつも大きな重圧を抱え、誰にも頼らず時間に追われて睡眠もとらずに仕事をこなしていく…

どんなに健康な人でも、これでは心身ともに病んでしまってもおかしくはないでしょう。

これが事実ならば、死の直前の尾崎豊は心身ともにボロボロだったことが伺えます。

 

尾崎豊の死の真実とは

死亡時の説について大きく分けて次の2つがあります。

  1. 自殺説
  2. 他殺説

また、2つの説の遠因としては次のようなものがあります。

  • 尾崎豊は1987年12月22日に覚醒剤取締法違反容疑で逮捕歴がある
  • 翌88年1月11日に起訴、2月22日に東京地裁で懲役1年6か月、執行猶予3年の判決を受ける
  • 同日1時30分頃に東京拘置所から釈放される
  • 死の約5ヵ月前の91年12月29日に母を亡くしている
  • 尾崎家は日蓮正宗であり、創価学会の会員だったものの、1991年11月に創価学会が日蓮正宗から破門されたことを受け、尾崎豊本人、父の健一さん、兄の康さんは創価学会を脱会しているものの、繁美さんは創価学会の会員であり続けたこと

 

そして、問題を大きくしたのが覚醒剤の検出の旨が記載された死体検案書のコピーの流出による漏洩です。

順に見ていきましょう。

 

検視の結果と自殺説について

当初は事件性がないとして行政解剖が行われる予定でしたが、管轄の千住署警視庁検察庁の3者が死亡当日の夜に協議した結果、全身の擦り傷、右目の上のコブなどから事件性ありと判断し司法解剖に切り替えられました。

翌26日の午前10時から東京監察医務院の医師らにより、緊急搬送された日本医大付属病院で検視、解剖が行われました。

この時に検視を担当した医師の支倉逸人氏(当時58歳)によると、次のことを自身の著書で明らかにしています。

  • 死因は肺水腫である
  • その原因は覚醒剤の一時的な過剰摂取による急性の中毒症状であり、経時的な悪化の症状はみられない
  • 内臓にも経口摂取した形跡がある
  • 肺にも覚せい剤中毒の症状がみられた
  • 過剰摂取の量は致死量とされるものの2.64倍以上あった
  • 覚醒剤の致死量は個人差が大きく、薬殺の手段として用いるには酒と同じくらい不確実性が高い

更に司法解剖後の詳しい調査の結果、次のことが分かりました。

  • 擦過傷と打撲傷をじっくり調べた結果、他者からの暴行によって生じるものとは異なる状態であった
  • 頭部に小さな外傷性くも膜下出血も確認されているが極めて微量の出血であり、死に至るほどの重症ではなかった

また、これらを裏付ける証拠として尾崎豊が地面に顔を叩きつけていたという目撃証言、更に転倒したり暴れて転げ回っていたという証言も警官が確認しています。

このような異常行動は覚醒剤中毒者によく見られるものだそうです。

覚醒剤を所持、使用したことに関しては、事件性がないこと被疑者が死亡していることをを前提の上で

  • 被疑者である本人から自白が得られない
  • 被疑者が死亡しているため裁判にならない
  • 死因については薬物名なども含め薬物死ということは伏せられ、他の無難なものが発表される

ということが通例のようです(肺水腫が無難かどうかはわかりませんが…)

したがって、1992年当時において支倉氏は肺水腫の原因は覚醒剤中毒である、ということは伏せていた訳ですね。

これで警察は捜査を打ち切りました。

支倉氏と警察の言葉をもう一度まとめるとこうです。

  • 一時的で大量の覚醒剤の経口摂取による中毒症状が原因の肺水腫による死亡
  • 傷を負うような異常行動は覚醒剤中毒者には往々にして見られる
  • 全身の傷は他者からの暴行とは違う状態

そして、千住署は詰めかけた取材陣に対し「薬は関係ない。なぜ肺水腫を起こしたかの原因は調べるが、死因がはっきりした以上、事件性はなく、これ以上の捜査はしない」と発表し、事件性なしとの判断を示しました。

警察は断定こそしていませんが尾崎豊の死は自殺であると判断したと考えてよいでしょう。

薬物の常用について

兄の康氏のよると、尾崎豊の覚醒剤の常用の有無について、次のように著書で述べています。

  • 「(ドラッグを使用していたということは)そんなことはありえない
  • 「(弟である尾崎豊の)わずかな変化でも気が付く
  • 「ドラッグの影響下にある時の特徴はあらわれていなかったと断言できる

最後のマネージャーであり康氏の幼馴染で、尾崎豊にとっては「もう一人の兄」といっていいほどの人物である大楽光太郎氏、妻の繁美さんも同様のことを自著で述べています。

これらのことから尾崎豊が薬物を常用していた可能性は限りなく小さいと言えるのではないでしょうか。

また、尾崎豊が1987年に覚醒剤取締法違反の容疑で逮捕された時には注射痕は無かったといいますが、逮捕時の取り調べで次のように話しています。

  • 去年(1986年)ニューヨークに行ったときにドラッグを覚えた
  • 摂取する時はいつも口から飲んでいた

覚醒剤はすさまじく苦く、その味は飲み物や食べ物に混ぜてもすぐにわかるほどだそうです。

その味を知っている尾崎豊に対し、口にするものに混入させて第三者が騙して飲ませることは不可能でしょう。

ここからは想像でしかありませんが、尾崎豊は大量の覚醒剤を何者からか手に入れることが出来た、そしてそれを常用はせず、自殺する目的で自らの意思で大量に経口摂取したということです。

また、尾崎豊の母絹江さんが約5か月前に急死したことも尾崎豊の心に大きな影響を与えていたと思われます。

母が亡くなった後、遺影の前で子供のようにいつまでも泣きじゃくっていたことや、ラストアルバムに最後にレコーディングした「Mama,say good-bye」は、尾崎豊が生涯最後に制作した、母に向けて贈った楽曲であることから、母の存在がいかに大きかったかを伺えます。

 

他殺説についての謎

ここからはもう一つの説である他殺説についてみていきます。

他殺説が流れ始めた大きな契機として次のようなものがあります。

  1. 1994年に死体検案書のコピーが流出したことと再捜査嘆願署名活動
  2. 1999年のフライデーの記事掲載
  3. 脱会された創価学会会員からの恨みによる他殺説

死体検案書のコピーの流出

1994年にあるジャーナリストが尾崎豊の死について独自に取材を元として「尾崎の妻と知人が覚醒剤を尾崎豊に飲ませて計画的に殺害を企てた」という他殺説を主張しました。

テレビ朝日もこのジャーナリストの取材と死体検案書のコピーを元に死亡についての検証番組を製作したものの、妻である繁美さんがこの2者を相手取り名誉棄損で訴えました。

裁判の結果は2000年2月の一審、2001年8月の二審でジャーナリスト側の敗訴、2002年2月に三審の上告は棄却された為に敗訴が確定。

テレビ朝日とは一審の結審時点で和解しています。

当時としては高額の慰謝料500万円の損害賠償支払いと謝罪広告の掲載命令が、一審の判決通りに下されたそうです。

また、このジャーナリストの取材は当時検視を担当した支倉逸人氏への裏付け取材が一切行われなかったことを、支倉氏は自著で明らかにしています。

しかし、この他殺説浮上により「尾崎豊の謎の死」として社会の注目を浴びることになり、警察に対する再捜査を求めた嘆願署名活動が起こります。

この活動には父の健一さん、兄の康さんも参加しました。

署名者の数は10万人にも上りますが警察は以前と同じく「事件性は無かった」としてこの署名を受け取らず再捜査は行われませんでした。

しかし、一部の人間が繁美さんを他殺の首謀者として脅迫するなどの事案が起こってしまいます。

身の危険を感じた繁美さんは息子の裕哉くんを連れ、かつて尾崎豊が暮らしたニューヨークへと移り住みます。

これが世に言う「尾崎裁判」の顛末です。

1999年のフライデー写真掲載と創価学会の報復説

これで一旦は収束したように見えた他殺説が、再び取り沙汰されるようになるきっかけは、死の7年後の1999年に写真週刊誌「フライデー」に尾崎豊の写真が掲載されたことでした。

この時には遺体安置所で撮影された写真死体検案書の写真が掲載され、大きな波紋を呼びました。

この写真を見た人々から次のような憶測、噂が流れ始めます。

  • 全身傷だらけで、右目の上に大きなコブまであるのに死因が肺水腫っておかしくない?
  • 警察はきっとまともな捜査をしなかったんじゃないか?

更にこれが発展して

  • きっと政治家が警察に圧力をかけて捜査を中断させてしまったに違いない
  • 妻の繁美さんが莫大な遺産目当てで暴力団の力を借り計画的に殺害し、さらに暴力団が圧力をかけて警察の捜査を中断させたんだ
  • いや、逆に暴力団が繫美さんをそそのかして、遺産目当ての計画殺人を実行したんだ

などと根も葉もない噂話がまことしやかに人々の口の端に上るようになりました。

さらには、創価学会からの脱会を恨んだ過激なグループが制裁を目的として、尾崎豊に覚醒剤を飲ませリンチを加えて殺害した、という噂まで流れ始めたといいます。

こうして、根も葉もない噂は、火のないところに煙は立たないとばかりにネットで独り歩きを始めてしまい、尾崎豊の死の謎として残ってしまうようになった、というのがいわゆる他殺説の起こりのようです。

この時の騒ぎを聞いて、繁美さんはニューヨークでどのような気持ちでいたのでしょうか。

 

尾崎豊の死後の出来事

1992年4月26日の午後4時。

司法解剖が終わった尾崎豊の遺体はワゴン車に乗せられ、千駄木の日本医大付属病院の霊安室を出発しました。

追いすがるマスコミの車を引き連れつつ、そして振り払うように繁美さんの実家マンションに午後4時41分頃に到着。

ここで待つ父の健一氏、息子の裕哉くん達と共に繁美さんに引き渡され、遺体はマンション16階の集会室に一旦安置されました。

ワゴン車が到着した後、繁美さんの自宅マンションの周りには人だかりが無くならなかったと言います。

午後5時30分頃、いつまでも立ち去らないファンに対し尾崎豊の事務所関係者がハンドマイクで説得を始めます。

「尾崎は人に迷惑をかけるのが嫌いだった。今日は家に帰って、尾崎の音楽を聴きながら、尾崎のことを思い出してほしい」

「尾崎はこの2か月、レコーディングで寝る暇もなく歌い続けた。30日には追悼式も行います。やっと眠れたのだから、帰ってください」

このように話し、土下座をして帰宅を促したそうです。

この言葉を聞いたファンの間からはすすり泣きが漏れていました。

こうして、集まったファンは少しづつ帰路についたといいます。

 

護国寺で営まれた追悼式

4月30日の追悼式当日は朝から雨だったといいます。

平日の木曜にも関わらず、朝8時の時点で護国寺には徹夜組の200人を含む5000人もの人が詰めかけ、開始の正午には傘の列が北には2.5キロ、南には1キロも伸びていたということです。

北はサンシャインシティを越え、南には江戸川橋の向こうまで列ができ、警備に当たった大塚署の発表によると集まった参列者は3万5千人。

しかし、護国寺の入り口が封鎖されてしまい、参列できなかった人の数を加えるとその数は4万人を超えていたといわれています。

追悼式が終わった後の、1992年4月30日午後4時

東京都新宿区の落合斎場で尾崎豊は荼毘に付されます。

墓所は埼玉県所沢市の狭山湖畔霊園であるとされています。

 

まとめ:尾崎豊の死因の真実は?様々な謎から考察!

2011年11月、文芸春秋に尾崎豊の遺書なるものが公開されました。

これを受け父の健一さんは週刊誌の取材を受けコメントしています。

「今となっては、他殺だとは思ってないけど、あれは自殺じゃない。豊じゃないからわからないけど、なんで死んだんだって…いまでも思ってます」

このように次男である尾崎豊の自殺を信じてはいない様子でした。

その健一さんも2018年の11月にお亡くなりになっています。

死因の真実は時の波の向こうにさらわれてしまったのかもしれませんが、鮮烈に生きた尾崎豊の魂は楽曲へと形を変え、今も変わらず私たちにメッセージを伝え続けてくれているのではないでしょうか。

今回は尾崎豊の死因の真実は?様々な謎から考察!」と題してお話させていただきました。

ここまでの長文をお読みいただき本当にありがとうございました。